人が弱れば野生動物が強くなる…


丹後半島を訪れるようになって、すでに30余年。
やはり、いつ行っても素晴らしい。
ここの景色が、とにかく好き、なのである。
これで、こんなに素晴らしい海があるのに、美味しい魚が入手できれば最高なんだけど、マーケットそのものがないからこれだけは「悲しい」。
マーケットがないのは、営業が成りたたないからである。
すなわちそれは、過疎化。
この写真に、そのすべてが表れている。
50年も前には、海辺の丘が段々畑できれいに整備されていたことだろう。
それが、高齢化で限界集落となってきているから、畑を耕す人もいない。
だから、このように雑草に負けてしまっている。
そして、少しばかり畑をつくれる人がいても、そこにはイノシシやシカ、サルが作物を奪っていく。
そのための防御が、こうして畑を囲う獣害ネットで、人の弱さが見てとれる。
このようなことは、社会現象であり、すなわちそこには人間生態学が見え隠れしている。
写真家として、この風景は数十年にわたって「定点撮影」をしていけば、そこから人間という「動物」が見えてくるから、ものすごく面白いテーマである。
このことは、全国どこにでもいえることであり、あらゆる地域に住めるプロ、アマを問わずカメラマンなら気づいて欲しいところだ。
花鳥風月に自然界を表現するだけが写真ではないし、人間自身を地球エコロジーからみつめればこのようなテーマには必然的にたどりつくことができるからである。
でも、それがなかなかにできないのは、評価に時間がかかるのと、そこまでの時間軸でみつめられないのと、写真家としてきちんと世間にアドバイスができる「写真家」や「評論家」がいないからだろう。
もちろん、毎年4月になれば桜の特集ばかりを組む、同じコトの繰り返しをしているカメラ雑誌などにも問題はある。
悲しいことだが、日本の写真観はそれだけ一面的な価値基準しかもちあわせてなく、それがいまでも相変わらずとして怠惰に動いてしまっている、ということになろう。
その昔、オイラはアメリカのヨセミテ公園を訪れた。
山岳遊歩道を登っていったら、大型カメラを据えて風景を狙っている一人の青年にであった。
ヨセミテ公園といえば、写真家のアンセル・アダムス。
そのアンセル・アダムスの撮影地点とまったく同じ場所に若い青年が三脚を構えて、「アンセル・アダムスの100年後の記録をしているんです」、と言った。
この言葉には、オイラもまいってしまった。
アンセル・アダムスの撮影した100年前と今では、風景も微妙に変化しているからである。
その視覚言語に、現代人には自然界と人間を読み解くヒントが隠されているからだ。
これなんだよ、これ。
この時間軸がなければ自然なんて語れない。
それは、風景写真でも民族写真でも、自然写真でもみんなおなじことがいえる。
そこが、写真として意味もありいちばん面白いところ、だからである。

写真:
1)手前の過疎化した畑の奥には、それを耕す人が住む。しかし、この集落の洗濯物をみればみんなラクダの股引。ピンクのブラジャーなんてひとつも干されていないから、この集落がどんな年齢構成であるかが一目瞭然でわかる。やがて、この集落も、時間とともに消滅していくのであろう。
2)ガード下には、老人用の手押し車。その向こうに見える畑も、獣害対策用に手づくりフェンスがある。もう、これだけで集落のすべてが語れてしまう。だから、写真は面白いのである。

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人が弱れば野生動物が強くなる… への3件のコメント

  1. 小坊主 より:

    私も、伊根で、同じような光景を見かけました。
    人が一歩退くと、野生が一歩、確実に踏み出しますね。

  2. ブリスパ より:

    >人が一歩退くと、野生が一歩、確実に踏み出しますね。
    あまり面白くない例かもしれませんが、つぶれたパチンコ屋の駐車場の雑草を思い出しました。

  3. gaku より:

    ■小坊主 さん
    端午半島には、ニホンザルがものすごく多いと感じました。
    人が完全に負けています。
    ■ブリスパ さん
    >あまり面白くない例かもしれませんが、つぶれたパチンコ屋の駐車場の雑草を思い出しました。
    うん、いい例えです、ね。
    その雑草から、人間をみることをオイラは考えます。